存在してないもの

在るようなないような雑記帳

当事者でなくても

現場に行くことが大切である、という教えを実践する過程を記した本。

本当にいろいろなことに挑戦されていて、気候不正義スト、脱プラ生活、ジビエ業、昆虫食、ウーバーイーツ、京大タテカン、あつ森、男性メイク、などなどが出てくる。どれも面白いのだが、特に気になったのは脱プラ生活。今の時代、包装は大体プラスチックだから、食品を買うだけでもかなり苦労されていた。近くに八百屋とか肉屋があるようなので何とかなっていたようだが、そういうお店がないと肉も野菜も魚も買えない。他にも、ラップが使えないから自作したり、プラ歯ブラシの代わりは馬毛と竹の歯ブラシ、紙おむつの代わりに布おむつと、代替品を準備したり使いこなすのも大変そう。エコとはいえ、コストと労力が半端ない。個人での脱プラはなかなか厳しそうだ。脱プラが社会全体に浸透すれば状況は変わるが、それはいつになるだろうか。

そして、最後に重要なポイントとして、当事者でなくても、関わりを持ったり、議論や発信をすることは大切なことだと書かれている。「当事者じゃないくせに」と批判する人もいるかもしれないが、それでは当事者と非当事者の分断を生むだけだし、非当事者は無関心になり、やがて忘れてしまうだけとなるとのこと。「共事者」(事を共にするというゆるい関わり)として関心を持つのが大切のようだ。確かに、当事者だけの活動では問題が一般の人々に認識されなかったり、認識されても重要性が低いと思われる可能性がある。非当事者も関心をもつことで、問題認識が社会に広がり、問題解決につながりやすくなる。行政を巻き込めればなおさらだ。やっぱり自助より共助、共助より公助がいいよね。